大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和54年(ワ)10304号 判決 1985年3月20日

原告(反訴被告)

月乃花子

右訴訟代理人

佐々木黎二

猪山雄治

松井宣彦

被告

右代表者法務大臣

嶋崎均

右指定代理人

福田修

外五名

右訴訟代理人

土谷明

被告(反訴原告)

平賀恭子

被告(反訴原告)

平賀義雄

右二名訴訟代理人

大江保直

川崎友夫

斎藤栄治

吉田正夫

柴田秀

狐塚鉄世

萩谷雅和

主文

1  原告(反訴被告)の本訴請求をいずれも棄却する。

2  反訴被告(原告)は、反訴原告(被告)平賀恭子、同(被告)平賀義雄に対し、それぞれ金二四一万八五〇〇円及び内金二二六万八五〇〇円に対する昭和五四年一〇月二三日から支払い済みに至るまで各年五分の割合による金員を支払え。

3  反訴原告(被告)平賀恭子、同(被告)平賀義雄のその余の反訴請求をいずれも棄却する。

4  訴訟費用は、本訴反訴を通じて原告(反訴被告)の負担とする。

5  この判決は、第2項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

(本訴について)

一  請求の趣旨

1 被告国、被告(反訴原告)平賀恭子、同(反訴原告)平賀義雄は、原告(反訴被告)に対し、各自金二六七万六〇〇〇円及び内金二四三万六〇〇〇円に対する昭和五三年一〇月一日から、内金二四万円に対する本判決確定の日の翌日から、それぞれ支払い済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告国、被告(反訴原告)平賀恭子、同(反訴原告)平賀義雄の負担とする。

3 仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告国)

1  原告(反訴被告)の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告(反訴被告)の負担とする。

3  仮執行の免脱宣言。

(被告(反訴原告)平賀恭子、同(反訴原告)平賀義雄)

1  原告(反訴被告)の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告(反訴被告)の負担とする。

(反訴について)

一  請求の趣旨

1 反訴被告(原告)は、反訴原告(被告)平賀恭子、同(被告)平賀義雄に対し、それぞれ金五四一万八五〇〇円及び内金五二六万八五〇〇円に対する昭和五四年一〇月二三日から支払い済みに至るまで各年五分の割合による金員を支払え。

2 反訴被告(原告)は、反訴原告(被告)平賀恭子、同(被告)平賀義雄に対し、別紙(一)記載の謝罪文を別紙(二)記載の新聞に別紙(三)記載の条件で一回掲載せよ。

3 訴訟費用は反訴被告(原告)の負担とする。

4 仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1 反訴原告(被告)平賀恭子、同(被告)平賀義雄の請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は反訴原告(被告)平賀恭子、同(被告)平賀義雄の負担とする。

第二  当事者の主張<以下、省略>

理由

第一本訴について

一当事者等について

1  請求の原因第1項(一)の事実、即ち、原告は昭和一二年四月一〇日生まれの有夫の女性である事実は当事者間に争いがない。

2  同項(二)の事実、即ち、被告国は東大病院を設置して経営を為し、また被告義雄を有給の医局員として雇用していた事実は当事者間に争いがない。

3  同項(三)の事実、即ち、被告恭子は肩書住所地において平賀整形を開設して経営を為し、また被告義雄を雇用していた医師である事実は、原告と被告恭子及び同義雄の間において争いがなく、原告と被告国との間では、被告恭子及び同義雄(第一回)各本人尋問の結果によりこれを認めることができる。

4  同項(四)の事実のうち、被告義雄が東大病院形成外科に勤務する医師であつた事実は当事者間に争いがなく、被告義雄が同恭子の長男であり、平賀整形に勤務する医師であつた事実は、原告と被告恭子及び同義雄の間においては争いがなく、原告と被告国との間においては、<証拠>によりこれを認めることができる。

5  次に、原告本人尋問の結果によれば以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

原告は、昭和三四、五年ころ(二二、三歳のころ)、大阪の梅田整形において、乳房を豊かにするために両乳房に注射器を用いた注入法による豊乳手術を受けたところ、間もなく両乳房にしこりが発生した。乳房の変形は特になかつたが、原告は昭和三七年に現在の夫と婚姻をなした後も依然として右のしこりが気になり、特に右側の乳房に異常な堅さを感じ、そのしこりが癌に変形しないか心配となり、昭和四三年ころ、大阪大学附属病院で右側の乳房の一部だけを摘出して検査を受けたところ、幸い癌は発見されなかつたということもあつた(原告が昭和三五年ころ梅田整形において豊乳手術を受けたことは、原告と被告恭子及び同義雄の間では争いがない。)。

二豊乳手術等について

1  <証拠>を総合すれば以下の事実が認められる。

(一) 原告は、その後両乳房の痛みはなく、大きな変形もなかつたが、依然としてしこりが堅いことがどうしても気にかかつており、昭和四九年に至り、豊乳術の技術が年々発達してきていることを知り、梅田整形で注入された異物の堅さに我慢がならず、これを取り出してもう一度豊乳手術を受け直そうと考えるようになつた。そして、原告は当時京都に存住していたのであるが、東京の整形外科医、特に平賀整形の評判を聞き及び、同年三月、全く面識のなかつた平賀整形の診察を受けるために上京した。

(二) そして、原告は、同月一九日、平賀整形を訪れ、患者として、診察を担当していた被告義雄の診察を受け(以上の事実については、原告と被告恭子及び同義雄の間では争いがない。)、一〇数年前に梅田整形で注入法による豊乳手術を受けたが、大きな堅いしこりがあるのでその注入異物を摘出して、その後の再建をして欲しいと訴えた。被告義雄が原告の両乳房を視診、触診等したところによると、原告の両乳房は全体をほとんど占めるほどのひと固まりのしこりとなつて、注入された異物が固まつていた。

そこで、被告義雄は、原告に対し、乳房全体に注入された異物は、乳房やその周囲に泌み込んで固まりを作つており、これを全部取り除くことは非常に難しく、このような大きなしこりを取り除く手術をすると、手術中や手術後に出血が多く、輸血を必要とするような例も多いこと、異物を取り出すにはどこかにかなりの長さの切開を加えなければならず、切開線の瘢痕が残り、また異物を除去した内部にも非常に強く瘢痕が残るため、乳房の変形が起こるのが一般的であること、注入異物を摘出した後、どうしても再建したいということであれば、バッグプロステーシスという袋状の型を入れるが、もし異物を摘出した後、乳房の皮膚の血行が悪く、皮膚が壊死に陥る危険がある場合は型を入れることができないこと、バッグプロステーシスを入れると正常な人でもある程度堅くなるのが通常で、注入異物を取つた後に再建術を行う場合はさらに堅さが増加するのが通例で、正常な柔らかさには決してならないこと、再建術後に堅かつたり変形したりして具合が悪い場合には、形にこだわらないで入れたものを取り除くのが望ましいこと、原告は当時三六歳であつたので、そろそろ乳癌等を心配する必要があり、またこのような大きなしこりがあると乳癌等の乳腺の病気が発生したときに、見逃したり、全く気が付かないで手遅れになる場合もあるから、医学的には取り出して乳腺の病気があるかどうかを調べるべきであることなどを詳細に説明した。そして、結論として、被告義雄は原告に対し、このような困難な手術や検査は一般の開業医である平賀整形ではできず、大学病院や総合病院でなければならないことを告げた。

それを聞いた原告は、それならどこか被告義雄が知つているところがあれば紹介して欲しいと希望を述べたので、被告義雄は、原告に対し、東大病院を紹介することにし、同病院形成外科宛に「両側の乳房の患者さんです。よろしく。」という趣旨の簡単な紹介状を書いて渡し、原告はそれを持つて帰つていつた。

なお、右診察の際、被告義雄は原告に対し、被告義雄が東大病院形成外科の勤務医でもあつたことについては一言も触れていない。

2  次に、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一) 原告は、平賀整形を訪れた約半年後の昭和四九年九月二日、被告義雄の紹介状を持参して東大病院形成外科を初めて訪れた。原告を初診したのは訴外福田医師であつたが、その診断したところによると、原告の両乳房には、その大半を占める堅いしこりがあり、皮膚との癒着はなく、全体としてまとまつていてあまり散らばつていないように見受けられ、腋窩淋巴節は触知せず、右乳房の外側やや上の方に手術の瘢痕と思われるものが認められた(右の原告の乳房の状態に関する事実については当事者間に争いがない。)。

原告は訴外福田医師に対し、「堅いしこりが非常に不快で、癌も心配だから是非取つて欲しい。ただ、取つてぺちやんこになるのはとても困る。どうしても大きさだけは保ちたい。」と訴えた。そこで、訴外福田医師は、原告に対し、このような注入異物はまず取るべきである、なぜなら、このようなしこりのために癌の発見が非常に遅れてしまう危険性があり、また稀に全身的な病気を引き起こすこともないではないからであると説明した。そして、訴外福田医師は、原告のしこりに対する嫌悪感が非常に強かつたこともあつて、しこりの摘出手術が必要であると判断した。また、原告がしこりを取り出した後に乳房の形を整えることを強く希望したので、摘出後にバッグプロステーシスを入れることもできるが、全く普通の乳房と同じ状態にはならず、自然の乳房では起きているときと寝ているときの形が違うが、バッグステーシスの場合は体位による形の変化は起こらないこと、原告の希望どおり柔らかい乳房になるかどうかはやつてみないと必ずしも予測がつかないこと、そして、結局また堅くなつて取り出さざるを得なくなることもありうることなどを説明した。

これに対し、原告は、両乳房のしこりを摘出する手術及び摘出後直ちにバッグプロステーシスを挿入する形成術の施行を強く希望した。そこで訴外福田医師は、原告に対し両乳房のしこりの摘出及びバッグプロステーシスの挿入の各手術をする治療方針を決定し、原告が手術を希望するならば、実際に手術を担当する医師の再診察を受けた上で、手術のための入院の契約をするように、原告に指示した。

(二) そして、原告は、昭和四九年九月六日、再度東大病院形成外科を訪れ、被告義雄の再診察を受けたが、このときも原告の両乳房には全体を占めるほどの堅いしこりがあり、皮膚との癒着はなく、可動性があり、炎症症状もなかつた。そして、被告義雄は原告に対し、再度異物摘出手術の困難さ、変形の強さ等々の説明をなし、原告もこれを了承の上、正式に入院、手術の予約をした。

3  そして、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一) 原告は、東大病院から送付された指示票に基づいて、昭和四九年九月二一日に、全身麻酔等に備えて、手術のための術前諸検査を地元の西京都病院で受けた上、その検査結果を持参して、昭和四九年一〇月一四日、東大病院形成外科病棟中央病棟五〇三号室に入院し、正式に手術の契約を締結した。入院時に被告義雄が原告を診察した際、体重は四九キログラムで、乳頭を圧迫すると乳汁等の淡黄白色の分泌物を認めたが、特に異常はなく、手術には影響がないものと判断された(右のうち、原告が東大病院形成外科に入院し、手術の依頼をしたこと及び原告が被告義雄の再診を受けたことは当事者間に争いがない。)。

そして、その日ころ、原告を囲んで東大病院形成外科に所属する医師が訴外福田医師を含めてほとんど全員出席して、原告に対して行う手術についてのカンファレンスを行い、経過説明、異物摘出手術及びその後の乳房再建術の方針等について協議がなされた。その際、原告は再建術の際に原告の胸に入れられる予定になつているダクロンパッチ付のバッグプロステーシスを示されて、その説明も再度受けていた。

なお、右バッグプロステーシスは、東大病院の会計を通さずに患者が直接購入するという取り扱いをされる特殊材料に属するものであつたので、原告の事前の依頼により、東大病院形成外科の担当医らが仲介して、業者に注文をし、原告の入院時にはすでに東大病院に届けられていたものであつた。

(二) そして、同月一六日、原告に対する手術は気管内麻酔による全身麻酔下で午前一一時一五分に開始され、被告義雄及び訴外新井医師が執刀し、訴外許及び同除ママ両医師がそれぞれ助手を務め、両乳房の一番下の部分に切開線をおき、ここから乳房全体を占める異物全体を乳腺とともに肉眼で見えるものはすべて摘出し、出血部分の止血操作をした後、残つた皮膚の血行状態を観察して、バッグプロステーシスを挿入しても表面の皮膚が血行障害を起こすことがないことを確認した上で、一六〇ccラウンドタイプのバッグプロステーシスを両乳房に挿入して、内出血を外へ導くため大坪式カテーテル各一本ずつを負圧をかけて吸い出しながら挿入して、皮下及び皮膚を縫合し、同日午後一時半に手術は終了した(右のうち、原告が東大病院形成外科において、両乳房に手術を受けたこと及び執刀医の一人が被告義雄であつたことは当事者間に争いがない。)。

なお、右手術の際、原告の顔面には多数の黒子があつたので、原告の依頼により、訴外徐医師によつて、光凝固の方法により、これを取り除く措置も行われた。

(三) 原告は、右手術の翌日である一〇月一七日には、内出血も挿入したカテーテルから約七〇ccをみただけで、再建された乳房はまだ瘢痕形成を来たしていないので非常に柔らかく、痛みも特に訴えておらず、非常に経過は良好であつた。そして、術後二日目の同月一八日には、内出血も止まつたので挿入していたカテーテルを抜去し、乳房の形も綺麗で良好であつた。そして、原告は、同月二一日に、バッグプロステーシスの代金一二万八〇〇〇円程度を被告義雄または訴外徐医師に支払い、入院費及び手術費等約二〇万円を東大病院の会計に支払つて、東大病院を退院した(右のうち、原告が東大病院を退院したことは当事者間に争いがなく、原告が東大病院に金一三万六八〇〇円の範囲で代金を支払つたことは、原告と被告国との間では争いがない。)。

なお、本件手術により摘出したしこりは、左右とも東大病院中央検査部病理組織検査室へ送られ、癌の有無、しこりの本態についての検索がなされたが、その結果は両側とも微小石灰化を含む異物性肉芽腫で、いわゆるパラフィン腫であり、悪性の所見はないことが同月二三日に判明した。

4  さらに、<証拠>によれば、以下の事実が認められる。

(一) 原告は、東大病院を退院した後、昭和四九年一〇月二八日に東大病院を訪れ、訴外新井医師の診察を受けたところ、乳房は左右とも変形はなく、手術瘢痕は綺麗で、残つていたナイロン糸を抜去した。また同年一一月二一日にも来院し、訴外徐医師が診察したところ、黒子の手術について、光凝固を行つた部分のうちの一部に少し深く焼けたところがあつた他は、良好な経過をたどつていた。そして、同年一二月二〇日には被告義雄の診察を受け、乳房の左側に入れた型がやや上昇気味であつた他は結果は良好で、弾力包帯による乳房の固定はこの日で中止された。原告は、その日、被告義雄から次回経過診察日を昭和五〇年二月一四日と指定されたが、その指示日に東大病院に来院せず、また以後何の連絡もしなかつた(右のうち、原告が右各診察を受けたこと及びナイロン糸の抜去措置を受けたことは当事者間に争いがない。)。

(二) なお、右の一二月二〇日ころは、原告が東大病院形成外科においてバッグステーシスの挿入による豊乳手術を受けた後、約二箇月が経過しており、右手術による瘢痕形成は通常一箇月目ごろから始まり、それから三箇月目ごろまでは瘢痕が堅くなつていくが、それ以後除ママ々に軟化し、六箇月ないし一年目ぐらいで軟化するものは軟化し、堅いものは堅いという症状が固定するに至るという経過をたどるものであるから、当時原告の両乳房についても、すでに瘢痕形成が始まつていたものと考えられ、原告が被告義雄に乳房の堅さを訴えたところ、被告義雄は、それは手術の通常の経過であつて異常なことではなく、一年くらい経過すれば徐々に良くなるからこのまま経過を見るように説明していたものと認められる。

5  ところで、右第1項ないし第4項で認定した事実については、これと多くの点で趣旨を異にする原告本人の供述部分が存在するので、次にこの点について検討する。

(一) まず日時の点については、原告本人尋問の結果中には、「原告が平賀整形を診察のために最初に訪れたのは昭和四九年九月であり、またそれから約一箇月くらい後に初めて東大病院形成外科を訪れ、直ちに入院した。」旨の供述部分が存在する。

しかし、右供述は曖昧な点が多い上、前記乙第一号証の日付欄には三月一九日と記載されており、また前記丙第一号証には東大病院形成外科の初診が九月二日で、九月六日にも再診を受けた旨の記載があり、また九月二一日付の原告の心電図レポートが存在すること、及び<証拠>に照らし、右原告本人尋問の結果部分はにわかに措信することができない。

(二) また、原告が平賀整形及び東大病院形成外科を訪れた際の原告の両乳房の状況については、原告本人尋問の結果中には、「梅田整形で豊乳手術をした後の原告の乳房のしこりは、左に二箇所、右に三箇所で、えんどう豆くらいの大きさのものが存在したにすぎず、そのしこりも相当堅く気にはなつたが、それから結婚して十数年結婚生活をしてきており、とりたててどういうことはなく、夫婦生活もうまくいつており、もし昭和四九年ころ、マスコミ等の色々な宣伝などがなければ、癌の検査はしていると思うが、多分そのしこりの摘出手術を受けることもなく、そのままいつていたと思う。」との趣旨の供述部分が存在する。

しかし、仮に梅田整形での注入法による豊乳手術の結果について、原告が多少堅いことが気になつた程度で、とりたててどういうことはないと感じていたのだとすると、前記のとおり原告がわざわざ京都から上京して、全く面識もない平賀整形を訪れてその診察を受け、また東大病院形成外科で本件手術を受けるに至つた理由が見い出し得ず、むしろ、原告は両乳房のしこりを相当気にしていて、何とかこれを柔らかく、自然な状態に近いものにしたいと切望していたものと考えるのが合理的であり、前記のとおり、原告が右しこりが癌に変形しないかと心配していたことがあつたことは原告の自認するところでもあり、これと<証拠>に照らせば、右原告本人の供述部分はにわかに措信できない。

なお、原告は、本訴において、「原告が平賀整形及び東大病院形成外科に申込んだ本件手術の内容は、乳房を柔らかく、かつ豊かにする豊乳手術の施行であつた。」旨主張するが、右のとおり、原告は乳房の堅さを相当気にしていたのであり、豊乳手術の前提として原告が梅田整形で注入した異物を取り出すことが含まれていたことは、原告本人尋問の結果において原告も自認しているところである。従つて、原告の求めた本件手術の内容が、原告の両乳房の注入異物の摘出とそれを前提としたその後の両乳房の再建であつたことは明らかであつて、右原告の主張は採用できない。

(三) また、原告が受けた本件手術の説明については、原告本人尋問の結果中には、「平賀整形での診察の際、原告が被告義雄に梅田整形での手術の跡をみてもらつて『このあと豊乳できますか。』と質問したところ、被告義雄は、『はい、できます。シリコンを乳房の下に切つて注入します。』というような趣旨の答えをされた。被告義雄からバッグプロステーシスということばを聞いたことがなく、袋という説明も聞いていない。『手術後柔らかくなるか。』との原告の質問に対しては、『なります。』という答えをもらい、堅くなる可能性があるなどと言われていない。」との旨の供述部分が存在する。また、「東大病院形成外科においては、胸に入れるものについては全く説明を受けていない。」との趣旨の供述部分も存在する。

しかし、後にも触れるとおり、<証拠>によれば、シリコン液等の注入による豊乳手術は、乳房の硬結等の種々の危険性をはらむものであり、平賀整形ではそのようなシリコン液の注入による豊乳手術はなされたことがないどころか、昭和四八年ころから、被告恭子及び同義雄は注入法による豊乳手術の危険性をテレビジョンに出演するなどして警告していたほどであり、また、訴外福田医師は、昭和三九年にすでに注入法による被害を学会に報告していたほどであつて、そのような被告義雄らが自ら注入法による豊乳手術などをしたはずがなく、本件手術当時東大病院内でそのような注入法による豊乳手術をすることが許されたはずもないこと、さらにバッグプロステーシスを入れた場合にもある程度堅くなるのが通例で、自然の柔らかさにはなり得ないと現在でも考えられていることが認められ、これらによれば被告義雄が原告に「柔らかく自然になる。」などと答えるはずもない。そして、東大病院形成外科において手術をするに際して、被告義雄らが原告にその手術内容を全く説明しないはずもないのであつて、これらに原告に対して説明をなしたとする証人福田修の証言及び<証拠>に照らしてみれば、右原告本人の供述部分は到底信用できず、採用できない。

(四) そして、さらに原告と平賀整形との間の手術契約の成否に関しては、原告本人尋問の結果中には、「原告が被告義雄に手術の申込をしたところ、被告義雄はそれに対して承諾をし、できませんという拒否の意思表示はしておらず、手術には設備が必要で、東大は設備がよく、被告義雄もその形成外科のところを担当しているから東大ですることにし、費用は乳房に入れる注入物の代金だけは被告義雄の方に、あとの手術費用は東大の会計の方にそれぞれ払うように言われた。」旨の供述部分が存在し、東大病院とは別に、平賀整形との間でも手術契約が成立したかのように供述する。

しかし、原告と平賀整形との関係については、前記乙第一号証には初診の結果が記載されているだけで、手術に関する記載が一切なされておらず、右原告本人の供述以外には原告と平賀整形との間で右手術契約が締結されたと認めるに足りる証拠は全くない上、前記のとおり原告は東大病院形成外科との間でも本件手術についての契約を締結しているのであるから、原告が平賀整形とも同一の手術契約を二重に締結していたとするのははなはだ不自然である。また、平賀整形における被告義雄の東大病院についての指示についても、前記認定のとおり、確かに被告義雄は当時平賀整形の医師であると同時に東大病院形成外科の医師でもあつたのであるが、証人福田修の証言及び被告義雄(第一回)本人尋問の結果によれば、被告義雄は当時東大病院形成外科の無報酬に近い非常勤の医局員にすぎなかつたのであり、そのような被告義雄がいまだ東大病院での診察を受けたことのない患者である原告に対し、東大病院での手術の約束とか、東大病院に対する代金の支払方法についてまで指示を与え、あるいは与えることができたとは、はなはだ考えにくいことである。従つて、これらの事実とその他被告恭子及び同義雄(第一回)各本人尋問の結果に照らしてみると、右原告本人の供述部分もにわかに措信できず、採用できない。

(五) 次に、東大病院での診察状況等については、原告本人尋問の結果中には、「原告は、被告義雄から『病室が空いたからいついつか来なさい。』という趣旨の電話連絡を受けたので、昭和四九年一〇月中旬ころ、上京して東大病院を訪れたが、被告義雄から紹介状を書いてもらつたこともないので、それを持参しておらず、また訴外福田医師には会つたこともないので、同人から診察してもらつたり、説明を受けたりしたことは全くない。」旨の供述部分が存在する。

しかし、前記のとおり、右の日時の点は措信しがたく、また、前記丙第一号証には確かに右の紹介状は添付されていないが、<証拠>によれば、右紹介状は非常に簡単なものであつたので、訴外福田医師は右丙第一号証(カルテ)の紹介者の欄に被告義雄の名前を記載しただけで、紹介状は処分してしまつたこと及び患者が単に口頭で紹介者のことを告げただけの場合は、訴外福田医師は通常紹介者欄の記載をしていないことが認められ、これらの事実とその他の<証拠>に照らしてみると、右原告本人の供述部分もすべてにわかに措信できないので、採用しない。

(一) 次に、カンファレンスの有無及びバッグプロステーシスの購入等については、原告本人尋問の結果中には、「原告が東大病院形成外科に入院した後、手術前に、東大病院形成外科の医師らによるカンファレンスを受けたことはないので、その際バッグプロステーシスを見せてもらつたこともない。そして、右バッグプロステーシスの購入方法については、平賀整形で診察を受けた際、被告義雄から胸に入れるものの材料代(バッグプロステーシスとは聞いていない。)を被告義雄の方に支払うように言われていたので、東大病院を退院する日に東大病院の病室で被告義雄に支払つたが、これは平賀整形に対して支払つたつもりでいる。」旨の供述部分が存在する。

しかし、カンファレンスについては、確かにこれがなされたことを示す記録は見い出せないが<証拠>によれば、東大病院形成外科に入院した患者のうち、手術を受ける患者に対しては必ずカンファレンスを行うことになつていたこと、また、そのカンファレンスについては記録を残さないのが通常であることが認められ、このことからすれば原告についても当然カンファレンスが行われたものと考えられ、また、バッグプロステーシスの購入についても、原告が平賀整形からこれを購入すべき合理的理由は全くなく、その他<証拠>に照らしてみれば、右原告本人の供述部分は到底信用できない。

(七) 次に、東大病院形成外科における豊乳手術の後の状況については、原告本人尋問の結果中には「原告の両乳房は、右手術直後から非常に堅く、退院後に三回ほど診察を受けた際も、全体がしこりの固まりのようにずつと堅い状態のままであり、また三回目の診察を受けた後は、特に異常がない限りまた診察を受けに来なさいと言われておらず、昭和五〇年二月一四日に再来院するようにとの指定も受けたことはない。」旨の供述部分が存在する。

しかし、術後の乳房の状態については、<証拠>によれば、後に詳論するとおり、確かに豊乳手術後に乳房が堅くなることはあるが、その原因は挿入したバッグの周囲に被膜が形成されたりして、乳房内部の瘢痕が拘縮することなどによるのであつて、前記認定のとおりこのような症状は通常術後一箇月ぐらいしてから始まるのが一般であると認められるから、術後直ちに原告の両乳房が堅かつたというようなことは考えられず、また再来院の指定についても、前記丙第一号証にはその日付が記載されているのであつて、その他<証拠>に照らし、右原告本人の供述部分もにわかに措信しがたく、採用できない。

(八) そして、右で述べた点以外の前記第1項ないし第4項の認定事実に反する原告本人の供述部分も、本件各証拠に照らしてにわかに措信しがたく、他に前記第1項ないし第4項の認定事実を覆すに足りる証拠はない。

三再手術について

1  <証拠>によれば、原告は東大病院形成外科の診察を受けに行かなくなつた後、両乳房に堅さを感じたことなどあつて、夫婦生活がうまくいかなくなり、和歌山県西牟郡白浜町古賀浦の古賀ノ井ホテルのメイドとして住み込みで働くようになり、夫と別居生活を送るようになつたことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(二) ところで、原告本人尋問の結果中には、「東大病院形成外科を退院してから半年位たつたころ、原告は再度平賀整形で診察を受けるために上京したが、平賀整形では診察を拒否され、仕方なく帰つた。」旨の供述部分が存在する。

しかし、原告が両乳房に悩みを持つていて診察を希望するなら、まず手術をしてもらつた東大病院に行くのが自然であると考えられるが、後記のとおり、原告は昭和五〇年一〇月三日までは再度東大病院を訪れてはいないのであり、わざわざ上京して東大病院には行かずに、平賀整形だけを訪れて診察を求め、それが拒否されたからといつてそのまま帰つたとするのははなはだ不合理であり、<証拠>に照らしてみても、右原告本人の供述部分は到底信用することができず、採用しない。

2  次に、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一) 原告は、昭和五〇年一〇月三日、東大病院形成外科の外来を訪れ、乳房が堅く、はつきりバッグプロステーシスが入つている感じがわかるなどと訴えたので、被告義雄が診察したところ、乳房が堅いのはバッグプロステーシスの周囲にできた繊維性被膜の収縮が原因で、長く放置されたまま手術後約一年を経過しており、症状も固定していると考えられるので、その被膜を破つて一時的に柔らくしたとしても、またすぐに瘢痕が形成されて同様の結果になるものと予想され、結局乳房が堅い原因であるバッグプロステーシスを取つてしまうことが望ましい旨を原告に説明した。それを聞いて原告もバッグプロステーシスを取り出すことを強く希望したので、原告と東大病院との間で再度の摘出手術(再手術)に関する契約が締結され、入院の予約もなされ、また当日直ちに全身麻酔のための諸検査が実施された。

(二) そして、原告は、同年一二月一九日、再度東大病院形成外科病棟中央病棟二〇二号室に入院した。原告の受持医は被告義雄と訴外徐医師であつた。原告の再手術は、同月二二日に手術前の診断の後、気管内麻酔下で被告義雄が執刀し、訴外徐及び同原田両医師が助手を務めて、午前一一時四五分に開始され、前回の手術の切開部の一部を利用して、挿入してあつたバッグプロステーシスを摘出し、その場を直ちに二層に縫合し、外側の糸は原告の希望で早く退院できるようにするため、早く抜去できる特殊な縫合を加え、午前〇時四五分に終了した。

(三) 再手術の経過は良好で、同月二四日、全抜糸が施行されたが、創は綺麗で内出血もなく、同日原告は軽快して退院したが、以後原告は東大病院形成外科に一度も来院しなかつた。

なお、原告の両乳房から摘出したバッグプロステーシスのパッチ周辺の繊維性被膜の厚い部分の標本は、東大病院中央検査部病理組織検査室へ提出され、その検査の結果、同月二五日、異形巨細胞、繊維性組織の増殖が見られるが、悪性変化即ち癌等の病変はないことが確かめられた。

(四) ところで、右第(一)項ないし第(三)項の認定事実に反し、原告本人尋問の結果中には、「右再手術にあたつても、原告は被告義雄から、原告の乳房に挿入されていて、今回摘出するものがバッグプロステーシスである旨の説明は受けておらず、また再手術における術前検査は西京都病院で受けたのではないかと思う。」旨の供述部分が存在する。

しかし、前記認定のとおり、昭和四九年一〇月一六日に東大病院形成外科で原告の両乳房に挿入されたものは、バッグプロステーシスであつたのであるから、その摘出手後の際にも当然その説明はなされていたはずであり、また、そもそも原告自身一年近くも自分の両乳房に入つていたものが何であるかを知らなかつたはずもない。そして、前記丙第一号証及び丙第三号証の記載に照らしてみると、原告は昭和四九年一〇月一六日の豊乳手術と再手術の際とを混同している節も見受けられ、以上によれば、右原告本人の供述部分はにわかに措信できず、その他に前記第(一)項ないし第(三)項の認定事実を覆すに足りる証拠はない。

3(一)  なお、<証拠>を総合すれば、原告は、昭和五一年五月二五日、京都市の黒田形成外科医院で、再度ダクロンパッチ付のバッグプロステーシスを挿入する方法による豊乳手術を受けたが、さらにその三年後にやはり乳房が堅くなつたので、昭和五四年五月二五日、再々度新しい型のバッグプロステーシスを挿入する豊乳手術を受け、その後しばらくマッサージ等の治療を受けていたが、やはり若干の硬化傾向が認められたが、そのまま現在に至つていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  ところで、原告本人尋問の結果中には、「東大病院形成外科でバッグプロステーシスの摘出手術を受けた後の原告の両乳房は、年齢に不相応な皮膚が伸び切つて、垂れ下がつた状態になつてしまつた。」旨の供述部分が存在するが、<証拠>によれば、バッグプロステーシスを挿入したからといつて皮膚が伸びることはなく、むしろその逆であることが認められるから、右原告本人の供述部分もにわかに措信できない。

四被告らの責任について

1  被告義雄の責任について

(一) 本訴において、原告は、被告義雄の責任については、大要、美容形成医師として、当時の医学水準から判断して、原告の希望する手術結果を得られる見込みがない場合には、その旨を原告に説明し、原告が希望しても豊乳手術を回避すべき注意義務があつたのに、右義務に違反して、原告の希望する手術結果が得られる見込みがほとんどないにもかかわらず、その旨を原告に説明しないまま手術を施行し、しかもその手術方法として各種の点に危険を包含する乳房内の注入異物の摘出手術と未だ安全性の確認されていないダクロンパッチ付バッグプロステーシスの挿入による同時再建術を行つた過失により、原告の両乳房内にダクロンパッチ部分を中心とした異物巨細胞を発生させ、繊維性組織を増加させたことにより、原告の両乳房に弾力性のない球状のこぶを形成させたものであると主張する。

(二) しかし、前記認定のとおり、被告義雄が東大病院形成外科の勤務医として原告に対し本件手術をなすにあたつては、被告義雄及び訴外福田医師から原告に対し、約一五年前に梅田整形において原告の両乳房内に注入された異物は、乳房やその周囲に泌み込んで固まりを作つており、これを全部取り除くことは非常に難しく、これを取り出すためにはどこかに切開線を入れなければならず、その瘢痕が残り、内部にも非常に強く瘢痕が残るため、乳房の変形が起こるのが一般的であること、注入異物摘出後にどうしても再建したいというのであれば、バッグプロステーシスという袋状の型を挿入することもできるが、そうすると正常な人でもある程度堅くなるのに、注入異物を取つた後に再建する場合はさらに堅さが増加するのが通例で、正常な柔らかさには決してならないこと、原告の希望するとおりの柔らかさになるかどうかはやつてみなければわからないことなどを詳細に説明し、原告もその説明を了解した上で、強く右手術を希望したので、本件手術を実施したものであつて、被告義雄らに本件手術についての説明義務の懈怠は何ら認めることはできない。

(三) また、注入異物摘出手術の必要性については、<証拠>によれば、原告の両乳房内に注入されていた異物による大きな堅いしこりをそのまま放置しておくと、乳癌等の乳腺の病気の発見及び適切な治療が非常に遅れてしまう危険性があり、また、原告の年齢が当時三六歳であつたことから、そろそろ乳癌を心配する必要があり、注入法によるしこりと癌によるしこりとが似ているところから、しこり全体を取り出して乳腺の病気があるかどうかを調べるべきであること(前記のとおり、原告は昭和四三年ころ右しこりの一部を摘出して検査を受けたことがあつたが、その一部の中には癌が発見されなかつたからといつて、他のしこりの部分にも癌はないと安心することは決してできない。)、そして、稀に注入異物が全身的な病気、即ちアジュバント病を引き起こす可能性があり、当時原告にはその徴候は見られなかつたが、異物を注入してから一〇年ないし一五年経過してからそれが発病する例もあつて、原告の場合も安心はできず、昭和四五年には我国でもアジュバント病で死亡した例もあつたこと(アジュバント病とは、一種の抗原病であり、簡単に言えば、アジュバントという物質(例えばパラフィンオイル等)が体の中に長い間入つていたことによつて、乳房の硬結、腋窩リンパ節腫脹の局所症状の他、発熱、貧血、関節痛などの全身的なアレルギー反応が出て来るようなものをいう。)、さらに、原告のしこりに対する嫌悪感が非常に強かつたことが認められ、これらの事実からすれば、被告義雄らが原告の両乳房の注入異物の摘出手術をなすべきであると判断したことは、適切であつたと解すべきである。確かに、<証拠>によれば、右摘出手術は、前記の原告に対する訴外福田医師及び被告義雄の説明のとおり、非常に困難な手術であり、摘出部位に瘢痕を形成して、これが後の乳房の拘縮の原因にもなると考えられ、また、右摘出手術でどうしても取り切れずに残る注入異物の小さな粒などが、被膜の繊維性の拘縮を来たすおそれのあることが認められるが、既に述べた右のしこりを摘出すべき必要性等と比較して考えると、被告義雄らが右摘出手術を行つたことには、何ら過失を認めることはできない。

(四) そして、前記認定のとおり、被告義雄らは訴外ダウ・コーニング株式会社製のダクロンパッチ付バッグプロステーシスを挿入する方法によつて豊乳手術を実施したのであるが、この点についても被告義雄には何ら過失を認めることはできない。

即ち、<証拠>によれば、確かにダクロンパッチ付バッグプロステーシスは、当時治験薬等として厚生省に届出もなされておらず、医療用具として正式に厚生省の輸入の承認が得られていなかつたことが認められるが、<証拠>によれば、ダクロンパッチ付バッグプロステーシスは、昭和三八年ごろからアメリカ合衆国において使われ始め、我国でも昭和四三年ころからは自由に入手が可能となり、世界的に最も多く使われている訴外ダウ・コーニング株式会社製のものは、昭和四〇年代ですでに少なくとも一〇万個から二〇万個ぐらいは使われていたほど定評のある製品であり、バッグプロステーシスを挿入する方法による豊乳手術は、現在でも最も安全な豊乳手術の方法であると考えられていることが認められ、また、<証拠>によれば、現在ではパッチの付いていないバッグプロステーシスの方が術後のマッサージの際に好都合であることなどから、より多く使用されるようになつてきているが、依然ダクロンパッチ付のバッグプロステーシスも販売されており、パッチの存在自体がバッグプロステーシスの周囲に発生する被膜に繊維性の拘縮を来たして、乳房の硬化の原因となるとは言い切れず、むしろ関係がないとする考えの方が現在の内外医学会では有力であり、また、そもそも本件豊乳手術当時は、我国ではダクロンパッチの付いていないバッグプロステーシスを入手することは不可能であつたと認めることができるのである。従つて、被告義雄が本件の豊乳手術において原告の乳房にダクロンパッチ付プロステーシスを挿入したことについても過失を認めることはできないのである。

なお、被告義雄は、前記のとおり、原告の両乳房の注入異物を摘出した後、残つた皮膚の血行状態から判断して、直ちに同時再建術を行つたのであるが、<証拠>によれば、再建手術は、摘出手術後一旦時間をおいて様子を見た上で、二次的に再建するという方法も考えられるが、いずれの方法によると、よりよい結果が得られるかは一概に決めることができず、患者の負担が一回で済む同時再建術の方法にも大きな利点があると認められ、少なくとも被告義雄が同時再建術を行つたことに過失があると認めることはできない。

(五) そして、その他被告義雄には、本件手術において不適切な措置等が存在したと認めるに足りる証拠もなく、従つて本件豊乳手術について、被告義雄には何ら過失を認めることはできない。

2  被告恭子の責任について

(一) 原告は、被告恭子の責任については、平賀整形を開設、経営する者として、その勤務医である被告義雄に本件手術を担当させ、あるいは原告と平賀整形との間で締結された形成手術施行契約における平賀整形の債務の履行補助者として被告義雄を選任して、右債務の履行(本件手術の施行)をさせたものであり、その際被告義雄に前記主張のとおりの過失があつたので、責任を負うべきである旨主張する。

(二) しかし、前記のとおり、原告と平賀整形との間で本件手術に関し、形成手術施行契約が締結されたとは認めることができず、被告義雄は東大病院形成外科の医師として、原告の手術に携わつたものと解されるから、右原告の主張はその前提を欠き、被告義雄の過失の有無の点に触れるまでもなく失当であり、被告恭子に責任を認めることはできない。

3  被告国の責任について

(一) 原告は、被告国の責任については、被告国は、東大病院を開設、経営する者であり、被告義雄は同病院形成外科の勤務医として本件手術を担当したものであり、あるいは原告と被告国との間で締結された形成手術施行契約における被告国の債務の履行補助者として、被告義雄を本件手術の主治医に選任して、右債務の履行(本件手術の施行)に当たらせたものであり、その際被告義雄に前記主張の過失があつたので、責任を負うべきである旨主張する。

(二) しかし、前記第1項で述べたとおり、被告義雄には本件手術につき何ら過失があつたと認めることができないのであるから、被告国が責任を負うべき理由も全くない。

五以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求はいずれも理由がない。

第二反訴について

一被告恭子及び同義雄に対する不当訴訟について

1  被告恭子に対する本訴の提起について

(一) 反訴請求の原因第1項の事実のうち、原告が被告恭子に対し本訴を提起している事実は当事者間に争いがない。

(二) そして、本訴において、原告が、被告恭子の使用者責任若しくは債務不履行責任を基礎づける事実として「①原告が被告恭子に手術を依頼したが、同人から手術ができない旨の拒否の意思表示は受けていないこと、②平賀整形の勤務医である被告義雄が、平賀整形における診察日において、自ら手術を担当する旨答えていること、③被告義雄は、平賀整形における診察日において、東大病院とは別途に平賀整形としての手術に要する費用を原告に告げ、現実に右費用を受領していること、④原告の平賀整形における手術依頼に基づいて、被告義雄が、平賀整形のカルテによつて原告に電話をなし、病室があいたので上京するよう指示したこと、⑤東大病院においては、新たに診察を受けず、平賀整形での診察結果が利用されている。」との主張をなしていることは、本件記録上明らかである。

(三) しかし、前記第一(本訴について)において認定したところによれば、原告が、昭和四九年三月一九日、平賀整形に赴き、両乳房の豊乳手術の依頼をしたところ、被告義雄が原告を診察し、原告の両乳房内の注入異物の摘出手術及び再建手術並びに摘出したものの検査をするのは、一般の開業医である平賀整形ではできず、大学病院や総合病院でなければならないと原告に告げ、原告の希望に従つて東大病院宛の紹介状を作成して原告に交付し、原告に引き取つてもらつたのであるから、被告義雄は、平賀整形で原告に手術をすることを拒否していたことは明らかというべきであり、右の際、被告義雄が原告に対し、右豊乳手術を東大病院で自ら実施するとか、その手術費用について告げたりしたことは認められず、かつ右手術費用を受領したりしたことを認めるに足りる証拠もないこと、そして、原告は、同年九月二日、東大病院に右紹介状を持参して、訴外福田医師の診察を受け、その結果乳房異物の摘出と再建術を行う治療方針の決定がなされ、同月六日にその後原告を担当することになつた被告義雄の再診察を受けて、東大病院形成外科に入院して手術を受ける予約をなし、同年一〇月一四日に東大病院に入院し、同月一六日に本件手術を受けるに至つており、その間被告義雄が平賀整形のカルテによつて原告に電話をし、病室が空いたので上京するように指示をしたり、東大病院において平賀整形での診察結果が利用されたりしたことを認めるに足りる証拠もないのであつて、結局、右第(二)項の原告の主張事実は、すべて事実に反するものであることが明らかである。

(四) ところで、民事訴訟制度を利用し、裁判所の公権的判断を求めることは国民に付与された当然の権利の行使であるから、訴を提起したものが結果的にその請求の理由のないことが明らかとなつたからといつて、そのことから直ちに右訴の提起が違法性を帯びて不法行為となるものではないことは言うまでもないが、訴の理由のないことを知りながら、例えばもつぱら相手方に損害を加える目的で訴を提起したり、あるいは容易に理由がないことを知り得るのに著しい不注意であえて訴を提起した場合等は、その訴提起自体が公序良俗に反し、不法行為を構成するものと解すべきであるところ、前記第(二)項の原告の主張事実は、それが存在するか否かを原告が直接経験し、かつ熟知しているはずの事実か、あるいは少なくともその事実の存否を経験則上容易に判断することができる事実であると解され、また、本件全証拠によつても、本訴提起に際して原告が、その主張する事実が真に存在したと確信するに至るのを相当とするような客観的証拠が存在したと認めることはできない。

従つて、以上によれば、原告は、平賀整形との間で本件手術の施行契約を締結したとか、平賀整形の手術として本件手術を受けたものと信じていたのかどうかはなはだ疑わしく、むしろ、そのような事実の存在しないことを知悉しながら、被告恭子を本訴の被告としてまき込もうとの意図のもとに、前記虚構の事実を主張して、原告が東大病院で受けた手術を平賀整形の業務の一環としてなされたものとこじつけて、理由のないことを知りながら、あえて本訴を提起したものと考えられるのであり、仮にそうでないとしても、少なくとも原告は、重大な過失によつて本件事実関係を誤認し、客観的、合理的根拠が何ら存在しなかつたのにもかかわらず、被告恭子を相手として、安易に本訴を提起したものであると解さざるを得ず、右原告の行為は、被告恭子に対する関係で、不法行為を構成するものと解するのが相当である。

2  被告義雄に対する本訴の提起について

(一) 反訴請求の原因第2項の事実のうち、原告が被告義雄に対し本訴を提起している事実は当事者間に争いがない。

(二) そして、原告が、本訴において、(後にその一部を変更しているが、)「被告義雄は、原告に対し、シリコン液を注入する方法による豊乳手術をなしたが、その結果は右手術直後から原告の両乳房は希望した自然の柔らかさがなく、堅い球状のこぶを形成させた。」旨の主張をなしていることは、本件記録上明らかである。

(三) ところで、前記第一(本訴について)において認定したところによれば、原告は東大病院において、訴外福田医師及び被告義雄から注入異物摘出術及びバッグプロステーシスの挿入による再建術について十分説明を受け、これを了解して右手術に同意して本件手術がなされたものであり、また、本件手術において被告義雄がダクロンパッチ付のバッグプロステーシスを使用したことその他右手術の施行に関し、被告義雄には何ら過失は存在しないことが認められ、さらに被告義雄が原告に対する豊乳手術に際し、シリコン液の注入などしていないこと及び右豊乳手後直後は原告の両乳房の経過は良好で、瘢痕形成を来たす以前は非常に柔らかい状態であつたことが認められるのであつて、右第(二)項の原告の主張事実も結局事実に反することが明らかである。

(四) そして、右原告の主張事実、即ち、原告がシリコン液の注入による豊乳手術を受けたかどうか及び豊乳手術直後の原告の両乳房の状況に関する事実は、原告が自ら経験し、当然熟知しているはずの事実であるから、原告は理由がないことを知りながら、あえて虚偽の事実を主張して本訴を提起したものと考えられるのであり、仮にそうでないとしても、少なくとも原告は重大な過失によつて事実関係を誤解し、安易に本訴を提起したものと認めざるを得ず、右原告の行為は、被告恭子に対する場合と同様に、被告義雄に対する関係でも、不法行為を構成するものと解するのが相当である。

3  損害

<証拠>によれば、被告恭子及び同義雄は、原告から本訴を提起され、それに対し応訴するため、それぞれ弁護人川崎友夫らを同被告らの訴訟代理人に選任し、同弁護士らに対し、着手金として各金二六万八五〇〇円を支払い、また成功報酬として各金一五万円を支払うことを約束することを余儀なくされたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そして、右各報酬額は、原告の被告恭子及び同義雄に対する前記各不当訴訟に応訴するための弁護士費用として相当であると解され、右金員の支出は、被告恭子及び同義雄らの蒙つた損害ということができる。

従つて、以上によれば、原告は、被告恭子及び同義雄に対し本件不当訴訟による損害金として、それぞれ金四一万八五〇〇円及び内金二六万八五〇〇円に対する右不法行為の後である昭和五四年一〇月二三日から支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払いをなすべきである。

二名誉毀損について

1  <証拠>によれば、昭和五四年六月一三日付「内外タイムス」紙上には、その第一面に原告がジャーナリストである訴外山口浩なる人物に対し、「原告(同紙上では村田雅子という仮名を用いている。)が平賀整形を初めて来院した際、被告義雄は、『豊乳はシリコン液を注入しますが外国製と国産があつて値段が違う。アメリカ製は一五万円と高いが品質がいいですよ。』と気軽に答えた。さらに原告が、『手術により乳房の柔らかさが喪失してコブにならないか、手術の傷跡が残らないか、また乳房の快感が損われないか。』について質問すると『アメリカ製の品質のよいものを注入するのだから、そのようにはなりません。』と副院長で平賀恭子医師の長男である平賀義雄医師は答えた。また、東大病院における本件手術及び再建手術については、『人体実験じやあるまいし、あまりに無責任なやり方。』との発言をなした旨の記載が存在すること、そして、事実原告は、昭和五四年三月ころ、右訴外山口浩から美容整形に失敗した患者の実態について話して欲しいと請われて、その取材に応じ、京都市の新都ホテルで同人に対し、右記事とほぼ同内容の事実を話しており、その際原告は右原告の話したことが具体的にどのように使われ、どこにどのように発表されるかということまでは知らされなかつたが、何かに発表される可能性のあることは予測しており、その場合には仮名にして欲しいと頼んでいること、しかし、原告は「内外タイムス」紙のことはかつて聞いたこともなかつたほどで、同紙に原告唯ひとりのこととして大きく取り上げられるものとは全く予想していなかつたことがそれぞれ認められ、右認定事実を覆すに足りる証拠はない。

2 そして、前記第一(本訴について)において認定したところによれば、平賀整形においては、注入法による豊乳手術は全くなされたことがなく、被告恭子及び同義雄は昭和四八年ころから注入法による豊乳手術の危険性をテレビジョンに出演するなどして警告しており、また、東大病院においても、訴外福田医師は昭和三九年にすでに注入法による被害を学会に報告していたほどであり、本件手術当時東大病院内でそのような注入法による豊乳手術をすることが許されたはずがないこと及び被告義雄には、原告に対してなした本件手術について何ら過失は存在しないことが認められるのであり、結局、右第1項の「内外タイムス」紙上の原告の発言、即ち、平賀整形において注入法による豊乳術が行われており、また原告が被告義雄から東大病院において注入法による豊乳手術を受けたかの如き発言等はすべて事実に反し、虚構の内容のものであることが明らかであり、被告恭子及び同義雄は、右虚偽の内容の新聞記事によつてその名誉を毀損されたものと推認することができる。

3  右のとおり、原告はジャーナリストである訴外山口浩に対し、何らかの形で発表されるに至るかも知れないことを容認して、内容虚偽の情報を提供したのであるが、右原告の行為は、たとえ原告としては、その情報の提供により、どのような内容の記事がどのような方法で発表されるか、またそもそも発表されるかどうかすらも当時全く予測がつかなかつたとしても、原告がそのような発言内容を事実と誤信したのも止むを得ないと認められるような特段の事情も存在しないのであるから、原告の虚偽の事実の発言に従つた新聞記事が作成されて発表されたことによつて、被告恭子及び同義雄の名誉が毀損された以上、不法行為を構成するものと解さざるを得ない。

4  ところで、被告恭子及び同義雄は、右名誉毀損の被害につき、慰謝料の支払と謝罪広告を掲載することを求めているので、次にこの点について検討するに、民法七二三条が名誉を毀損された被害者の救済処分として損害賠償のほかにそれに代えまたはそれとともに名誉を回復するに適当な処分を命じうることを規定している趣旨は、その処分により金銭による損害賠償のみでは填補されえない毀損された被害者の人格的価値に対する社会的、客観的な評価自体を回復することを可能ならしめるためであると解すべきであるから、右民法七二三条に基づく謝罪広告は、名誉毀損によつて生じた損害の填補の一環として、それを命ずることが必要でかつ効果的であり、しかも判決によつて強制することが適当であると認められる場合に限りこれを命ずることができるのであつて、名誉毀損による被害が金銭賠償によつて十分に償われる場合とか、その他当該名誉毀損行為の反社会性の程度が軽徴ママで、これによる被害も小さい場合等には、謝罪広告を命ずることはできないものと解するのが相当である。

そこで、これを本件についてみるに、前記のとおり、原告は訴外山口浩の取材に応じて虚偽の情報を提供し、右虚偽の発言内容がほぼそのまま「内外タイムス」紙上に掲載されてしまつたのであるが、弁論の全趣旨によれば、原告の提供した情報がそのまま記事として発表されたというのではなく、第一にジャーナリストである訴外山口浩によつてまとめられて記事が作成され、第二に右記事を持ち込まれた訴外内外タイムス株式会社がそれをどのように構成して発表するか、あるいは発表しないかを判断するといつた過程を経た上で、新聞記事として掲載されるに至つたものと推認することができるのであり、少なくともその記事の取り上げ方、掲載の仕方等については、原告は全く関与していなかつたものと認められる。そして、客観的にも、原告が右情報を提供した時点では、それが報道されるに至るかどうか、殊に本件のように新聞の第一面に大きく取り上げられて掲載されることになるか否かは、はなはだ不確実なものであつたと解せられ、また、「内外タイムス」紙は主に首都圏のみを中心として発行されている新聞であることは公知の事実であり、本件の記事も、一見客観的な裁判報道のようにも見受けられる部分もあるが、その表現方法、内容等からみて、いささか興味本意ママの記事であるとも評価することができるものである。

従つて、右のような本件記事の発表に至るまでの経緯、態様及び内容等からすれば、これによつて被告恭子及び同義雄が蒙つた名誉毀損による被害はそれほど小さくないと言うことはできるが、これについての原告の関与の程度は直接的なものではなく、しかも、その発表が、ジャーナリストを介して、一応発表した新聞社の独自の判断のうえでなされたものであるなどの事情と、その他諸般の事情を総合して考えると、被告恭子及び同義雄の名誉の回復の措置としては、原告に対し謝罪広告の掲載まで命ずる必要はなく、慰謝料として相当の金員の支払を命ずれば、これによつて被告恭子及び同義雄の被害は十分に償われるものと解すべきである。

そして、右慰謝料の金額としては、被告恭子及び同義雄に対し、各金二〇〇万円と認めるのが相当であると解する。

5  よって、以上によれば原告は被告恭子及び同義雄に対し、本件名誉毀損による損害金として、それぞれ金二〇〇万円及びこれに対する右不法行為の後である昭和五四年一〇月二三日から支払い済みまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払をなすべきであり、被告恭子及び同義雄のその余の請求は棄却されるべきである。

第三結論

以上によれば、原告の本訴請求はすべて理由がないからこれを棄却し、被告恭子及び同義雄の反訴請求は、被告恭子及び同義雄に対し、それぞれ金二四一万八五〇〇円及び内金二二六万八五〇〇円に対する昭和五四年一〇月二三日から支払い済みに至るまで各年五分の割合による金員の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(小野寺規夫 寺尾洋 山田敏彦)

別紙(一) 謝罪文<省略>

別紙(二)、(三)<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例